茶道の歴史と流派(4) | 利休の後継と三千家の成立(利休七哲、千宗旦、三千家の成立を解説)
茶道を学ぶには、まず歴史の理解が重要です。「茶」という文化の起源や日本への伝来、それが茶道という芸術に発展し、その後どのようにして現在のような流派に枝分かれしていったのかを知ることが大切です。
このページでは、利休七哲の存在から、千宗旦の子による三千家の分立までをわかりやすく解説します。
※ 岸田静亮の備忘録と捉えていただければと思っております。茶の書籍や、茶席などで見聞きした内容をまとめたものとなります。最新の研究などにより情報が修正されている可能性もございますので、あらかじめご了承ください。
1. 利休七哲
千利休には多くの著名な弟子がいました。その中でも、とくに後世の茶道に影響を与えた7人の弟子たちのことを利休七哲(りきゅうしちてつ)といいます。当時はこういった呼称はなく、後世で広まった呼称です。一般的には、蒲生氏郷(がもううじさと)・細川三斎(ほそかわさんさい)・瀬田掃部(せたかもん)・芝山監物(しばやまけんもつ)・高山右近(たかやまうこん)・牧村兵部(まきむらひょうぶ)・古田織部(ふるたおりべ)のことを指します。
利休の死後も、利休七哲を中心とした利休流の茶人たちが後世に茶道を広めていったのです。

2. 千利休の後継者
千利休には二人の息子がいました。実子で長男である道安(どうあん)と、後妻である宗恩(そうおん)の連れ子である少庵(しょうあん)です。利休の切腹により千家は断絶となり、この二人を含めた利休の親族は日本各地へ逃避しました。しかし、利休七哲の一人である蒲生氏郷の取り計らいにより、すぐに千家の再興は叶いました。
道安は、利休が生前に認めるほどの茶の名人でした。豊前の細川家の茶頭となり、豊前に移り住んで生涯を閉じたと云われています。
少庵は、蒲生氏郷のもとに逃避していましたが、千家再興が認められると京都の不審菴に戻り、没収されていた利休の茶道具を引継ぎました。事実上、利休流の後継者は少庵となりました。

3. 千宗旦(1578 - 1659年)
少庵の後、利休流は長男である千宗旦(せんのそうたん)に引き継がれました。利休の孫ということになります。幼少期には大徳寺の喝食(かつじき)となり、その後も侘びの境地を徹底追求したと云われており、乞食宗旦と呼ばれるほどでした。
宗旦は千家の後継となり不審菴(ふしんあん)に住んでいましたが、晩年はその北側(裏側)に今日庵(こんにちあん)を建てて移っております。
宗旦の弟子には山田宗編(やまだそうへん)・藤村庸軒(ふじむらようけん)・杉木普斎(すぎきふさい)・松尾宗二(まつおそうじ)などがおり、独自の流派として後世に茶道を広めております。

4. 三千家の分立
千宗旦には4人の息子がいました。長男は訳あって茶道は引き継いでおりません。次男は武者小路千家として、三男は表千家として、四男は裏千家として千家の茶道を引き継ぎました。
宗旦までは、茶道界では「世襲」という風潮はほとんどありませんでしたが、江戸時代になり、宗旦の頃から各流派で世襲制度が一般的になっていきました。

5. 表千家(不審菴)
利休の孫である宗旦は、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)に不審菴(ふしんあん)を引き継ぎました。当時の不審菴は、京都の寺之内通に面していたため表千家と称しました。利休以来の不審菴を継いでいますので、千家の本流といえます。
2025年現在では、15代目(利休を初代として)の猶有斎 宗左(ゆうゆうさいそうさ)が家元として表千家を引き継いでいます。

6. 裏千家(今日庵)
利休の孫である宗旦は、三男の江岑宗左に不審菴を引き継いだ後、不審庵のすぐ裏手に今日庵(こんにちあん)を建てました。これを四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)に引き継ぎました。今日庵が不審菴の裏手にあったため裏千家と称しました。
2025年現在では、16代目(利休を初代として)の坐忘斎 玄黙宗室(ざぼうさいげんもくそうしつ)が家元として裏千家を引き継いでいます。

7. 武者小路千家(官休庵)
利休の孫である宗旦の次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)は、千家流茶道を引き継がずに職人となりました。しかしその後、千家茶道に戻り官休庵(かんきゅうあん)を建ててました。京都の武者小路に面していたため武者小路千家(むしゃこうじせんけ)と称しました。
2025年現在では、15代目(利休を初代として)の隨縁斎 宗屋(ずいえんさいそうおく)が家元として武者小路千家を引き継いでいます。

静亮庵では、こうした歴史や精神性も丁寧にお伝えしています。
茶道の世界を体験してみたい方は、ぜひ無料体験にお越しください。