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茶道の歴史と流派(5) | 千家以外の名茶人たち(古田織部、藪内紹智、小堀遠州、片桐石州の紹介)

茶道を学ぶには、まず歴史の理解が重要です。「茶」という文化の起源や日本への伝来、それが茶道という芸術に発展し、その後どのようにして現在のような流派に枝分かれしていったのかを知ることが大切です。

このページでは、利休の親族以外で、現在まで引き継がれる流派の開祖となる名茶人たちをわかりやすく解説します。

※ 岸田静亮の備忘録と捉えていただければと思っております。茶の書籍や、茶席などで見聞きした内容をまとめたものとなります。最新の研究などにより情報が修正されている可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

1. 古田織部(1543 - 1615年)

利休七哲のひとりに古田織部(ふるたおりべ)がいます。武家の生まれですが、武芸よりも芸術に才能がある人物でした。千利休の死後、豊臣秀吉の茶頭となったほどの人物です。利休の弟子の中でも別格の高弟であったようで、徳川の時代になり織部は2代将軍の徳川秀忠の茶道指南役にもなりました。

江戸幕府の元で将軍・大名の武家流の茶道の式法を作り出しています。現存する武家流の茶道流派は、織部流を基礎としています。現在では、織部流を忠実に復元した流派もあります。

しかしながら、大坂夏の陣の際、徳川家を裏切ったという嫌疑をかけられ、切腹により没しています。古田家は断絶となってしまったため、織部の直系の血縁による正統な茶道流派は現在には残っておりません。

織部は、茶道以外の芸術にも才能がありました。趣向としては、利休の侘び茶よりも少し華やかさがあり個性的なものです。焼物や筆蹟、茶室建築などの面でも現在まで多くの作品が保存されています。

古田織部の肖像画と織部芸術のイラスト

2. 藪内紹智(1536 - 1627年)

武野紹鴎の弟子のひとりに藪内紹智(やぶのうちじょうち)がいました。「紹」の字は紹鴎からもらったと云われています。古田織部から、草案茶室の傑作とされる燕庵(えんなん)を譲り受けています。

紹智は京都の下京区に居を構え、藪内流の茶道流派を開きました。三千家が上京区にあるため上流とされ、藪内流は下京区にあるため下流といわれることがあります。

2025年現在では、14代目の允猶斎 紹智(いんゆうさいじょうち)が家元として藪内流を引き継いでいます。

藪内家の門のイラスト

3. 小堀遠州(1579 - 1647年)

古田織部の弟子に小堀遠州(こぼりえんしゅう)がいます。武家の出で、江戸幕府の駿府城作事奉行を務めたため「遠州」呼ばれるようになりました。織部の後を引き継ぎ、3代将軍の徳川家光の茶道指南役となりました。

遠州は茶道以外の芸術にも才能があり、とくに建築・造庭家として現在でも著名です。晩年の遠州は京都伏見奉行となり、大徳寺孤篷庵・金地院などの茶室や庭園という、現存する傑作を残しています。

遠州の芸術はきれいさびと言われます。利休好みの「侘び・さび」に華やかさを加えたものであり、小堀遠州の最大の特徴です。遠州が開いた遠州流茶道も、武家でありながらこのような特徴を持っています。

2025年現在では、13代目の小堀宗実(こぼりそうじつ)が家元として遠州流茶道を引き継いでいます。

小堀遠州の肖像画イラスト

4. 片桐石州(1605 - 1673年)

千利休の長男である道安には桑山宗仙(くわやまそうせん)という弟子がいました。その宗仙の弟子に片桐石州(かたぎりせきしゅう)がいます。武家の出で、江戸幕府で石見守を務めたため「石州」と呼ばれました。小堀遠州の後を引き継ぎ、4代将軍の徳川家綱の茶道指南役となりました。

石州は利休好みの「侘び・さび」を基本とするものの、『石州三百箇条』において武家流の茶道の規律を固めています。

石州を開祖とする石州流は、江戸幕府の元で全国の武士に広まりました。石州直系の親族のみでなく、多くの優れた弟子たちによって枝分かれしました。2代目を藤林宗源(ふじばやしそうげん)とする古石州流や、直系親族による新石州流(高林庵)などが現在でも石州流を引き継いでいます。

武家流茶道のイメージ画像

静亮庵では、こうした歴史や精神性も丁寧にお伝えしています。
茶道の世界を体験してみたい方は、ぜひ無料体験にお越しください。

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