茶道の歴史と流派(3) | 千利休の登場と「侘び茶」の完成(武野紹鴎と千利休による侘び茶の完成までの歴史)
茶道を学ぶには、まず歴史の理解が重要です。「茶」という文化の起源や日本への伝来、それが茶道という芸術に発展し、その後どのようにして現在のような流派に枝分かれしていったのかを知ることが大切です。
このページでは、千利休を中心として、戦国時代における侘び茶の完成をわかりやすく解説します。
※ 岸田静亮の備忘録と捉えていただければと思っております。茶の書籍や、茶席などで見聞きした内容をまとめたものとなります。最新の研究などにより情報が修正されている可能性もございますので、あらかじめご了承ください。
1. 武野紹鴎(1502 - 1555年)
2. 千利休(1522 - 1591年)
3. 利休による侘び茶の完成
「侘しさ」とは、元々は物寂しい・不完全・不便といった意味です。しかし、千利休の侘び茶ではそれを美として昇華させました。「不完全」「質素」な中に美しさや豊かさを見出すという価値観です。
高価な中国舶来品ではなく、国産の素朴な器(楽茶碗など)を利休好みの茶道具として使用し、金碧障屏など豪華な室礼から、草庵風の小さな茶室(2畳など)の空間での茶となりました。 客との一期一会、心のこもったもてなしの精神や、目立たず、静けさと内面の深さを重視する演出を好みました。
利休は、茶室そのものも草庵(そうあん)という侘びの精神を体現する空間としました。以下は、その草庵形式の代表例のひとつです。
- 茶室:待庵(たいあん)(現存最古の茶室、国宝)
- 規模:二畳台目(約2.75畳)という極小空間
- にじり口:客が頭を下げて入る謙虚な構造
これは「豪華な広間」での茶の湯とは対極にあり、心で感じる世界への入り口でした。

4. 戦国時代の茶人としての利休
戦国時代になると、各大名は茶の数寄者となっていきました。名物茶器を所有することによって権力を示すようなこともありました。その中でも織田信長の茶頭(さどう)である今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)・千宗易という、3人の紹鴎の弟子たちがとくに高名となりました。
豊臣秀吉の時代になると、とくに千宗易が寵愛されます。関白になった秀吉が正親町(おうぎまち)天皇に献茶をする際にも、宗易は後見人となりました。勅賜号がなければ宮中に入れないため利休居士(りきゅうこじ)という号を与えられました。
利休は、茶道だけではなく、政治面でも秀吉の側近となっていきました。

5. 利休の切腹
精神性重視の利休と、権威を誇示する秀吉との間にズレが生まれます。
- 秀吉は金の茶室や豪華な道具を好んだ
- 利休は質素で精神的な茶道を良しとした
また、秀吉に寵愛されている利休を妬んだ石田三成などの重臣の計略などにより、切腹を命じられてこの世を去ることになります。
切腹を命じられた直接的な理由としてさまざまな議論がありますが、大徳寺の山門に金毛閣を寄付した際、その頂上に利休自身の木像を置いたことによる不敬事件が原因であるとするのが現状は妥当なようです。
しかしながら、武士でもない利休が、打ち首ではなく「切腹」という方法で処刑されたのは、秀吉の利休に対する敬意の現れであるという見解には信憑性があります。

静亮庵では、こうした歴史や精神性も丁寧にお伝えしています。
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