茶道の歴史と流派(2) | 茶道文化の発祥と茶人の登場(能阿弥から村田珠光、そして鳥居引拙までの茶の歴史)
茶道を学ぶには、まず歴史の理解が重要です。「茶」という文化の起源や日本への伝来、それが茶道という芸術に発展し、その後どのようにして現在のような流派に枝分かれしていったのかを知ることが大切です。
このページでは、茶道文化の発祥と、それに関わる茶人たちをわかりやすく解説します。
※ 岸田静亮の備忘録と捉えていただければと思っております。茶の書籍や、茶席などで見聞きした内容をまとめたものとなります。最新の研究などにより情報が修正されている可能性もございますので、あらかじめご了承ください。
1. 能阿弥(1397 - 1471年)
室町時代中期、能阿弥(のうあみ)は8代将軍足利義政に芸術面で仕えていました。短歌や水墨画などにも優れた総合芸術家でした。茶の文化も能阿弥によって日本独特の文化に変化しました。
それまでの茶の様式は中国的なものでしたが、日本風の書院造りに合わせた様式に適合させました。また、茶を点てる一連の方式も考案し、現在の点前の原型を作ったのは能阿弥であると云われています。
広義での茶道においては、第一人者は能阿弥であると言えるでしょう。
また、芸術品の鑑定能力にも優れており、東山御物(ひがしやまぎょもつ)という唐物名物の制定も行いました。東山御物に制定された茶道具は、その後の時代でも重宝されました。

2. 村田珠光(1423 - 1502年)
能阿弥の弟子に村田珠光(むらたじゅこう)がいました。とくに茶について造詣が深く、「芸術としての茶」を確立しました。能阿弥の茶は形式的なものでしたが、そこに精神的な概念を取り入れて、芸術に昇華させた人物です。この精神的な概念は、後に「侘び・さび」につながっていくものとなります。
一般的に、茶道の開祖はこの村田珠光とされています。仏教の禅の精神を茶に取り込むことによって、奥の深い「茶の道」の原点を確立したのです。

3. 侘び・さび
「月に雲間の無きは、嫌にて候」これは村田珠光が言ったとされる言葉です。一般的には、遮蔽物がなく月が明瞭に見える方が良しとされる場面が多いと思います。これに対して、侘びとは少し曇っている状況であり、さびとは雲間からのぞく月の状況といったイメージかもしれません。

4. 鳥居引拙(???? - ????年)
村田珠光の弟子に鳥居引拙(とりいいんせつ)がいました。珠光の弟子の中で一番の茶道の名人だったため、珠光流の後継者です。また、堺の町の豪商でもあり、茶道を堺に持ち込んだ最初の人物と云われています。引拙に関する資料はほとんど現存しておらず、あまり情報がありません。

静亮庵では、こうした歴史や精神性も丁寧にお伝えしています。
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